20日から重機を使った市民球場の解体がはじまりました。
いままでも「解体」、「解体」という既成事実づくりのための広島市のバフォーマンスには、このブログではいちいち反応はしてきませんでしたが、今回はさすがに座視してはいられません。
とうとう、やってしまいました。
広島市、というか秋葉市長は、とうとうパンドラの箱を開けてしまったのです。
このパンドラの箱には、憎しみ、怒り、病、悪意といった、この世の悪のすべてとともに、被爆死したひとびとの怨念も閉じ込められていたにちがいありません。
それがこのたびの暴挙で解き放たれてしまったのです。
広島のひとびとにとっては、8月6日と10月15日は決して忘れられない日。
昭和20年の8月6日は、いうまでもなく原子爆弾が投下された日。
昭和50年の10月15日は、広島東洋カープが初優勝した日です。
そしてこの日、平成22年12月20日は、広島市民球場の重機による解体がはじまった日。秋葉市政がこれまで口辺に隠して来た牙を剥いて市民に襲いかかった日として、広島市民は未来永劫忘れることはないでしょう。たったひとりの跳ねっ返りの首長によって、市民のかけがえのない財産が破壊された日として。
しかし、この世のあらゆる悪が閉じ込められていたパンドラの箱には「希望」も入っていたように、私たちも絶望することはありません。
もし今回の解体が完遂されても、それは来年3月の第一期工事分のみ。
ここで市長が変われば、いや市民が変えれば事態は一転することでしょぅ。
この怒りを、この嘆きを、この悲しみをバネに広島市民は市長の首をすげかえて、残った球場の一部を基礎として、市民球場の魂を継承する器を建設していけばいいのです。
夜明け前の、深い闇。いま私たちはそんななかにいるのです。